ヨアヒムからハイフエッツまで

ヨアヒムからハイフエッツまで
村上信至

ヴァイオリンの名器について

ヴァイオリン(フィドル)の起源は謎で、はっきり分かっていない。生まれながら完全無欠な形で誕生したという説がある。昔の楽器が現存しないので推測するしかないのが実情である。
1500年前期、イタリアのクレモナで、アマティ一族が製作を始めたことが分かっている。その後1650年頃から、アントニオ・ストラディバリと、グァルネリ一族の名工がクレモナの地で製作に励みその地の名を高めた。

アマティを使用した演奏家として有名なのは、カペー弦楽四重奏団のルシアン・カペー(1873〜1928)。

グァルネリ・デェル・ジェスは、アントニオ・グァルネリ(1644〜1737)が製作したヴァイオリンのこと。胴の中にイエズス会のマークであるHISのラベルが貼ってあるのでイエス=ジェス呼ばれ、この名が付いた。これをニコロ・パガニーニ(1782〜1840)が愛用したことは有名である。彼が使用した楽器はカノンと呼ばれる。

ストラディバリウス(ストラド)に至っては、歴代の数多くの名手によって現在も愛用されている。
製作当初はバロックヴァイオリンであり、弦の張りも弱く、音も小さかった。これを後年、パリのニコラ・リュボ(1758〜1824)やジャン・バティスト・ヴィヨーム(1798〜1875)が大音量の演奏会用に改造したのが、今日のヴァイオリンである。

現存数はアマティが約100挺、ストラディバリウスが約600挺、グァルネリウスが50〜140挺、ほとんどの名手はこの三種の中から使用している。使用した演奏家の名前が付けられた名器もあるヴィオッティー、エルマン、ミルシティン等。
名器は演奏家から演奏家へと渡ったり、楽器商に買い取られたりした。日本では、日本音楽財団がストラディバリウスやグァルネリウス等の名器を蒐集し、これを優秀な内外の若手に無償で長期貸与している。諏訪内晶子さんの1714年製ストラド「ドルフィン」が有名。ほかにも無名で優秀な内外の演奏家に貸与されている。同団の趣旨に、「良い楽器は良い演奏家を育てる」とある。

18世紀以降では、グァダニーニやベルゴンツィ、19世紀では、ブレッセンダ、そしてロッカ、フランスのヴィヨームが有名。
ストラディバリの弟子達は技術を習得し其々の故国に帰って製作を続けた。ドイツではチロル地方で盛んに作られていてシュランメルには多分これを用いていると思われる。

日本では、東洋のストラディバリといわれた、宮本金八(1878〜1960)が有名。独学で習得したそうである。我が国に永住した楽壇の恩人、隠れ巨匠のモギレフスキーも愛用した。来日時にこれを演奏したメニューインやハイフエッツは絶賛したそうである。
音に影響する表盤の木材は、スプルース(マツ科のヨーロッパトウヒ)、当時は小氷河期の影響を受け、木目が詰まった弾力のある材質であったそうで音が良く響くそうである。
魂柱(サウンドポスト)のある楽器はヴァイオリンのみである。胴体の中に立てるのだが、その位置によって、文字どおり、この木片が魂を吹き込むかのように響きが変わる。

弓にも名匠がいる、フランスのフランソワ・トゥルト(1747〜1835)が弓のストラディバリと言われている。馬の尻尾を使用する。それ以前の弓は、バッハボウとよばれる半月状のように湾曲した形であったのではないかと言われている。これを用いると同時に四本の弦を弾くことが出来るらしい。本当にそんなことが出来るのだろうか。なんとその証拠に、レコードが存在するのである。50年代にエミール・テルマニーが、バッハの指定通りの演奏で無伴奏曲をLP録音に残していて、和音が増える分、その音が分厚くなり旋律線が引っ込み、オルガンの音のようになるそうであるが、残念な事に私はまだ聴いたことが無い。レコードの入手が出来ないのだ。このLPをお持ちの方は、お聴かせ下されば望外の喜びである。

今日、ご紹介するレコードは主にアコースティック録音の1900年初頭から1925年、又この後の年から始まった電気録音による1930年前後の小品を中心にしている。時間の関係上、1曲1面を原則とした。この頃のヴァイオリンの演奏はサロン向きで、娯楽音楽中心の時代であった。そしてヴァイオリニスト達は、今では考えられないような個性的で自由な演奏を繰り広げていたのである。しかし、現代では、大曲が中心となり、大ホール向きの大きな音を出す演奏に変わってしまい、このような微妙な味わいを大切にする演奏様式は衰退してしまった。今日では多彩なニュアンスが求められる、これらの小品のほとんどは演奏されなくなってしまった。現代においては、これらのSPレコードは大変貴重な記録である。

現代の演奏家はアメリカのガラミアン(カペーの弟子)門下が主流で、アメリカ派とでも言える状態である。このメソッドで育てられた優等生的な若手は、音楽コンクールが目標の機能的なテクニシャンが多く、なぜか正確だけの無個性的な演奏家が多い。彼等の演奏から音楽を楽しめないと感じるのは私だけだろうか。

個人的見解だが、当時の各流派の特徴を一言でいうと、フランコ・ベルギーは感覚的、ドイツ・ウイーンは精神的、東欧は情緒的、ロシアは感情的。各派の良い所を取り入れた、カール・フレッシュやジョルジュ・エネスコ、そして我が道を行くヨーゼフ・シゲティなどは独自の道を進んだ演奏家である。

◆ドイツ=ウイーン
ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)
ハンガリー(現オーストリア) ドイツ古典主義派

門下生:アウアー/フバイ/ヘッス/クリングラー等 
使用楽器:ストラディバリウス

バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン等を重視した古典主義者。信じられないことだが、当時これらの作曲家は殆んど演奏されなかった。1843年から、メンデルスゾーンのピアノ伴奏や指揮で、リサイタルを開き古典派の名曲を積極的に紹介した。特にロンドンでは絶賛された。1849年、リストが指揮者を務めるワイマール宮廷楽団のコンサートマスター兼独奏者となる。シューマン、ブラームスとは親しかった。当時はロマン派の時代である、日本では江戸時代の後期にあたる。彼はブラームスの二才年上であった。

沢山の弟子を育て、ヨーロッパ音楽界の精神的な拠所となったヨアヒムであった。しかし、その門下生の中には一寸籍をおいただけで、「私はヨアヒムの弟子だ」と吹聴する輩もいたそうである。このSPの録音はすでに73歳の時の物で、ボーイングがぎこちないが、元々癖があったそうである。その点をカール・フレシュは批判していた。しかし、ベートーベェンのコンチェルトの演奏は大変な迫力に満ちたものだったらしい。また、ヨアヒム弦楽四重奏団を組織し、古典派の室内楽の普及にも努めた。その演奏は素晴らしかったそうだ。室内楽のレコードが残っていないのはとても残念である。

ヨアヒムはブラームスなどの良き相談相手であり、コンチェルトのカデンツアを作曲したりした。また、演奏会のレパートリーを発掘し、古典派の作品を蘇らせ、音楽的で内容のあるものにした功績は大きい。曲芸的な演奏を嫌い、曲の精神性を大切にしたが、この姿勢は後に弟子のフーベルマンや、孫弟子のブッシュやシゲティ、に引き継がれることになる。

60歳の時、メルバに惚れてプロポーズをするが振られてしまう。この若さと情熱には驚く、恋に年齢はないようだ。74歳で没する。

この録音は晩年のもの、フレシュの指摘したように硬直した演奏だが、気迫の凄さは伝わってくる。高齢にもかかわらず、録音を残してくれたことに感謝したい。
○曲目 ブラームス:ハンガリア舞曲第2番ニ短調

アドルフ・ブッシュ(1891〜1951)
ドイツ ドイツ古典主義派 ヘッス門下

使用楽器:ストラディバリウス

ヨアヒムの孫弟子だが、その精神を引き継いだヴァイオリニストと言える。
バッハ、ベートーベェン、ブラームス等のドイツ古典の傑作しか演奏しない。パガニーニやサラサーテなどは絶対に弾かない。重厚な中にロマン的情緒がある。美音である。ブッシュとしては大変に珍しい小品のレコードを聴く。十代の若い頃の録音と思われる。
○曲目 ドヴォルザーク:スラブ舞曲第6番ニ長調

ウイリー・ブルメスター(1869〜1933)
ドイツ ロマン主義名技派 ヨアヒムの門下生

使用楽器:不明

ドイツのもう一つの流れである、ロマン主義名技派。パガニーニが十八番であった。ただし、ピッチがあやふやだったそうである。レコードを聴く限りでは手堅く典雅。デンマークで活躍したが、晩年は指を痛めてしまい不遇であった。シベリウスのヴァイオリン協奏曲の初演と献呈をスケジュールのミスで逃したりして、とかく運の悪い人であった。
○曲目 ラモー:ガボット

ヨーゼフ・ヴォルフシュタール(1899〜1931)
ドイツ ロマン主義名技派 フレッシュの助手

使用楽器:グァルネリ・デル・ジェス

フレッシュ譲りの典雅で素直な美しさがある。指揮者セルの夫人と恋愛結婚する。いわゆる不倫である。当時の最新型のスポーツカーを乗り回したりして、とかく生活が派手であったらしい。寒い日に友人の葬儀に出席して風邪をこじらせ夭折した。
○曲目 ブラームス:ワルツ

ブロニスラフ・フーベルマン(1882〜1947)
ポーランド ヨアヒム門下

使用楽器:グァルネリ・デル・ジェス/ストラディバリウス「フーベルマン」

すっきりとした香るような音色、勢いのあるスピッカート、うねるようなヴィブラート、艶のあるポルタメント、技巧派であるが強い精神性も感じさせる。しっかりした音で、男性的な気迫がある。小品でも大曲でも思いを込めて情熱的に弾く、晩年はイスラエルフィルハーモニーを設立。勝手な想像だが、ヨアヒムの若い頃は、こんな演奏だったのかもしれない。
○曲目 J.S.バッハ:パルティータ第1番ロ短調 サラバンド〜ドゥーブル

ユージン・オーマンディ(1899〜1985)
ハンガリー フバイ門下

1921年アメリカ演奏旅行中に、マネージャーに騙されて無一文になる。糧を得るため、ニューヨークキャピトル劇場オーケストラの楽員となる。同年、その腕を買われてコンサートマスターに就任。1923年SP録音を始める。1924年指揮者が急病で倒れ、急遽、指揮者としてデビューする。1931年ミネアポリス交響楽団の指揮者に就任。1931年にはトスカニーニの代役としてフィラデルフィアオーケストラを指揮し成功を収め、1936年副指揮者となる。1938年ストコフスキーの辞任により同オーケストラの音楽監督に就任。無一文からとんとん拍子に有名指揮者へと上り詰め、正にアメリカンドリームを実現させた。アメリカ人好みの音楽家。
○曲目 クライスラー:愛の悲しみ オーマンディ指揮、ミネアポリス交響楽団

バルナバス・フォン・ゲッツイ(1887〜1971)
ハンガリー フバイ門下

使用楽器:ストラディバリウス

ブタペスト歌劇場のコンサートマスターを務めていたが、1924年から小編成の楽団を作り、タンゴの世界で活躍した。今日はオペラ歌手の歌にオブリガードを付けたレコードを紹介するが、その甘い音色は後のタンゴへの転向を連想させる。ゲッツイと言えば「碧空」が有名で、カラスの鳴かない日はあっても、碧空が流れない日はない、と言われたほど当時はヒットした。名前のフォンから、貴族出身のようである。タンゴとダンス音楽に転向後、かなり稼いで早々と引退した。晩年は悠々自適の人生だったそうである。
○曲目 リムスキー=コルサコフ:「サドコ」より印度の歌
コリュス(ソプラノ)、ゲッツイ(ヴァイオリン)、ザイドラー=ウインクラー指揮、管弦楽団
<歌詞>
彼方の南国 水面深く秘めた 宝の数々  
珊瑚の島 青い宝石の岩  
そこに人の顔の霊鳥が住み 日ごと夜ごと 美しきメロディーに
舞う麗しき翼 歌声を聴けば 命永らえる
彼方の南国 水面深く秘めた 宝の数々

フリッツ・クライスラー(1875〜1962)
オーストリア ヘルメスベルガー門下

使用楽器:ストラディバリウス

第一次大戦では陸軍将校として参戦、負傷し退役。戦後、アメリカに移住するが、母国の傷痍軍人や戦災孤児等への援助が、反アメリカ的、敵国人的である、として非難された。同時に、若い苦学音楽生達への援助も惜しまなかった。実像は人道主義者であり愛国者であった。その演奏は、典雅で、甘い音色と優しさ、愛情があり、彼の人間性を表している。ユーモリストでもあった。アメリカでのパーティーで「私はフォードではありません、クライスラーです」。と挨拶し爆笑を受けた。(後にフォード大統領がこれを逆にしてパクルのだが、これも洒落ている。)ラフマニノフとは親友であった。デュオのSPを残している。
自作を古い作曲家の新発見の曲と偽って発表し、一時非難を受けるが後に再評価される。
○曲目 クライスラー:ウィーン奇想曲

ヤン・クーベリック(1880〜1940)
チェコ

使用楽器:ストラディバリウス/グァルネリ・デル・ジェス

華麗な技巧家として頂点に立ちながら、ハイフエッツに追い越されてしまう。古典的名曲には興味を示さず、技術的難曲ばかりを演奏した。しかし、衰えは早かった。ハンガリーの女伯爵と結婚、不動産の売買で大資産家となる。しかしゴシップも多く、それが衰えに拍車をかけた。後年、映画のシナリオライターになり、息子を俳優にさせて、映画の中でヴァイオリンを弾くのが夢だったそうである。しかし、息子の一人ラファエルは指揮者になってしまった。肖像画が残っているが、今で言うイケメン。
○曲目 サラサーテ:スパニッシュ・ダンス第3番 アンダルシアのロマンス

ヴァーサ・プシホダ(1900〜1960)
チェコ マルシーク門下

使用楽器:グァルネリ・デル・ジェス

パガニーニの再来といわれ、遺品のガルネリを貸与される。妖艶、妖気を感じさせる音。華やかで官能的。ある意味あざとく低俗の一歩手前。大曲には不向きであった。ウイーンフィルのコンサートマスターでユダヤ人アーノルド・ロゼの、その妹アロマと結婚するが後に離婚する。彼は政治的にはナチの支持者であったといわれている。
○曲目 ドヴォルザーク:スラブ舞曲第10番ホ短調

◆フランス・ベルギー
ウージェーヌ・イザイ(1858〜1931)
ベルギー フランス・ベルギー派

使用楽器:グァルネリ・デル・ジェス

ヴュータンの弟子、同門にフバイがいる。世紀の巨匠であり、大ヴァイオリニスト。情熱的で入魂の演奏をする。特にコーダに至るスピードと迫力はレコードを通しても感じられる。フランクのヴァイオリンソナタやショーソンの詩曲などが彼に献呈された。晩年は、肥満と老齢で指揮者に転向、シンシナティオーケストラを率いた。
○曲目 メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調〜第3楽章フィナーレ 

ジャック・ティボー(1880〜1953)
フランス フランス・ベルギー派

使用楽器:ストラディバリウス

パリ音楽院でマルシックに師事、首席で卒業後、カフェで「序奏とロンド・カプリチオーソ」を弾いているのをコロンヌに見いだされ、コロンヌ管弦楽団に入団、1898年「大洪水」前奏曲を弾き大成功を収め、一躍寵児となる。クライスラーとは親友で、若い二人は相当に遊びまわったらしい。1906年カザルス・トリオを結成。1943年ロン・ティボー音楽コンクールを創設。晩年はオークレールがお気に入りであった。戦後、来日途上のエール・フランス機がアルプスに激突、愛器ストラディヴァリと共に散った。遺体も楽器も見付かっていない。
自由な中に節度がある。粋でいなせで色気があって繊細な美しさ、テンポが素敵である。フランス音楽の特徴である優雅、清楚、洗練、の調和がある。こんなに心地よいヴァイオリンは他にはない。私の大好きなヴァイオリニスト。
○曲目 グラナドス:スペイン舞曲

ジョルジュ・エネスコ(1881〜1955)
ルーマニア

使用楽器:グァルネリ・デル・ジェス

ヨーロッパのあらゆる楽派をマスターした。音楽の辺境の地ルーマニアの出身。マジャール人の血のせいか東洋的な神秘と、祈りにも通じるような情熱の高まり、音楽を超えた深味がある。美音であり格調が高い。ヴァイオリニストの枠を超えた芸術家である。しかし、本人は作曲家だと思っていた。作品が多数残されている。こんな言葉が残っている、「ヴァイオリンよ、お前さんはあまりにも、あまりにも小さいのだよ」。
私にとっては神である。
1929年の一連の録音は超名盤。弟子に神童メニューインがいる。
○曲目 プニャーニ:ラルゴ・エスプレッシーボ

カール・フレッシュ(1873〜1944)
ハンガリー プロフェッサー

使用楽器:ストラディヴァリウス/グァルネリ・デル・ジェス

ヨーロッパのあらゆる楽派をマスターして、ヴァイオリン演奏のバイブルといわれる教則本(ヴァイオリン演奏の技法、スケール練習を重視している)を書いた。芸術性を重視。端正で気品がある。小品を演奏しても慈しむように誠実かつ音楽性豊かに弾く。技術的にもごまかしの無い正確な演奏である。しかも絶対音感は比類なく、とても優れていると思う。その特徴は門下生のゴールドベルクに色濃く引き継がれた様に思う。弟子に、ハシッド、ヘンデル、ヌブー、シェリング、ゴールドベルク、オドノポゾホフ、リバール、ギトリス等。夭折したハシッドを除き、次の世代で活躍した人が多い。彼の評論文が引用されることが多いが、それだけ多くの人に認められ、評価が高かった証拠である。
○曲目 ファリャ:七つのスペイン民謡より「ホタ」

◆ロシア

アウアーの門下生にはエルマン、ジンバリスト、ミルシティン、パーロー、ハンセン、メンゲス、ザイデル、モギレフスキー、ハイフエッツなど。皆、技術がしっかりとしている。絢爛華麗な傾向だが、一人一人は音楽的には様々である。これは、アウアーが弟子達に「自分の音楽、個性を大切にしなさい。しかし、しっかりした技術が無ければ表現力は生まれない」。と言った指導方針からのようだ。芸術か技術か、両立は難しい。カール・フレシュは、アウアー門下生の丸みを帯びた豊潤な音の秘密は、フランス・ベルギー派に比べて、人差し指を1cm高く弓に置いているからだ。と述べている。フランス・ベルギー派は小指を使わず三本指なのに比して、同派は弓に小指を軽く当てる。

トーシャ・ザイデル(1899〜1962)
ロシア アウアー門下

使用楽器:ストラディヴァリウス

江藤俊哉の名はザイデルのトーシャから取ったのは有名。アウアーの教え「君はヴァイオリンを弾くのではなく、ヴァイオリンを歌うのだ」、これを体現したヴァイオリニスト。ロシア的で19世紀風の濃厚な演奏。やりたい放題で面白い。アウアー一門がロシアから脱出する際、最後まで高齢のアウアーに同行し師匠を守った。
○曲目 ブラームス:ハンガリア舞曲第1番

ヤッシャ・ハイフエッツ(1901〜1987)
アウアーの弟子

使用楽器:グァルネリ・デル・ジェス

現代に強い影響を与えたヴァイオリニスト。その技術の高さは今のヴァイオリニストでも適わない。時には絢爛豪華、妖艶、そして比較する者の無いヴィルトーゾ振り、凄いと思う。しかし、演奏が終ってしまうと、なぜか不思議なくらい感動が残らない。意外と良いのがクラシック以外の曲。
○曲目 サラサーテ:チゴイネルワイゼン バルビロリ指揮、ロンドン交響楽団