Nipper湘南SPレコード愛好会

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REPORT Vol.4

 

 june.30.2014

編集部

 

第14回例会

平成26年6月8日(日)午後2時より

会場:無罣庵(大磯)

コミックソングの歴史

「豊年斎梅坊主からトニー谷まで」

 “添田唖蝉坊 生誕の地に因んで”

講師:村上信至

 

 


村上信至 会員        喜代門 守 会員


講演風景

 今例会に、岡田則夫氏がご出席下さいました。氏は当愛好会の設立会員でもいらっしゃいます。

永年に亘り”レコード・コレクターズ“に連載を執筆されており、先般、単行本”SPレコード蒐集奇談“を出版され、大衆芸能研究家として署名な方です。今回のテーマにも、様々なご示唆を下さいました。

 また、今回初の試みとして、電気再生を行いました。装置は喜代門守会員が担当、1930年代、鉄針用のHMV電蓄とドイツ製励磁スピーカーを使用しました。皆様からは、「こんなに明瞭で、聴きやすい音は初めてだ。」との評価を頂きました。

 当地は、添田唖蝉坊生誕の地です。これに因み壮士演歌の解説と、聴く機会の少ない、明治、大正の音楽も取り上げています。

 

 

岡田則夫先生を迎えて

 曲目

 ・ 阿保陀羅経「出鱈目」     豊年斎梅坊主         ニッポノホン

 ・ まっくろけ節           市助             オリエント

 ・ スットントン節          砂川捨丸           オリエント

 ・ 書生節「ノンキナトウサン」     石田一松           ヒコーキ

 ・ お伽歌劇「茶目子の一日」    平井英子 他          ビクター

 ・ 酋長の娘           富田屋喜久治         ポリドール

 ・ 洒落男「ゲイ・キャバレロ」      二村定一           ビクター

 ・ アルコール行進曲       バートン・クレーン         コロンビア

 ・ エノケンの月光價千金       榎本健一          ポリドール

 ・ もしも月給が上がったら      林伊佐雄 他          キング

 ・ 四人の突撃兵        あきれた・ぼういず          ビクター

 ・ 浪曲ダイナ           川田義雄           ビクター

 ・ 笑うリズム          なんじゃら・ほわーず         タイへイ

 ・ 僕は特急の機関手で      波岡惣一郎 他         ビクター

 ・ 田舎のバスで          中村メイ子           ビクター

 ・ そろばんチャチャチャ        トニー谷           ビクター

 

 

コミックソングの歴史

はじめに 

 コミックソングとは「滑稽な持ち味の音楽」の総称である。内容演奏方法や歌唱方法で笑わせるもの、ものまね、ギャグ、ナンセンス、風刺、駄洒落、エロ、パロディーと多岐に亘る。(Wikipediaより)

 江戸時代は、願人坊主という坊主姿の芸人がいて、大道芸や門付を行っていた。

 明治に入ると、この大道芸人が御座敷や寄席で「阿保陀羅経」や「かっぽれ」を演じるようになり、一座が出来る程流行する。自由民権運動の中から薩長藩閥政治を批判する壮士節が誕生する。これが大道芸として民衆に支持され壮士演歌と呼ばれるようになって行く。やがて、演歌師が集まって「青年倶楽部」を創設、この活動により地域を越えて全国に流行っていった。しかし、流行りものは廃れるものだ。明治の中頃には演歌師も少数になっていった。危機感を持った添田唖蝉坊は、演説調ではなく、民衆が口ずさめることの出来る、質の良い作品を作り、これを演歌師達に提供し始めた。これが再び時流に乗って歌本が飛ぶように売れた。流行歌の原点、演歌の登場である。その後、更なる演歌の質的向上を図る為、添田唖蝉坊が中心となって新たに「青年親交会」が出来る。ここに苦学生達が加わって来る。街角で演歌を歌いながら歌本をり学費を稼ぐ為であった。書生節の誕生である。これは昭和の初頭まで続いた。

 大正時代になると、大正ロマンで代表される西洋と日本の折衷文化が生まれるが、やがて関東大震災が発生し大きな影響を受けてしまう。

 昭和に入ると、震災復興が進み海外から来たジャズやタンゴなどが流行る。ラジオやレコードが普及し、音楽が産業化して、スター歌手が生まれる。しかし、第2次世界大戦の敗戦ですべては壊滅してしまう。戦後、軍国主義から開放された市民は、生活苦に喘ぎながらも自由を謳歌する。そして、新たな時代に新たな才能が開花して行くのである。

 

 

明治

阿保陀羅経から壮士演歌そして書生節へ

 明治時代に流行したものに壮士節(壮士演歌)がある。これは現代の演歌とは全く異なり、政治や世相を鋭く風刺した演説歌である。もとは自由民権運動を啓蒙するまじめなものであったが、面白おかしく歌うことで耳目を集めて流行する。初期の有名な「オッペケペー節」は、1900年(明治33年)パリ万博に壮士芝居の川上音二郎一座が出演し、英グラモフォンが録音(本人ではないらしい)したことで有名である。歌の内容は吏党や特権階級を風刺していて、当局が万博出演を許可したことが信じられない。これが日本のコミックソングの初録音盤といわれている。明治20年代初頭には大道芸の壮士達を糾合して青年倶楽部が出来る。豊年斎梅坊主が采配を振るっていたらしい。

 明治末頃には、地方から都市へ出てきた苦学生が学費を稼ぐ為にアルバイトとして街頭で流行り歌を歌いながら1冊2銭の歌本(赤本・読売)を売って収入を得た。これが書生節である。とても人気があったらしく歌う演歌師の後を女子供がぞろぞろと後を追って来たそうである。昭和初期にはラジオや蓄音機の普及により姿を消した。

 


壮士節


書生節


歌本

 

 当時を社会的側面から見ると、日清戦争によって産業が興り、38万人の労働者が生まれることになる。中には学問を修めた知的な労働者もいた。日露戦争時による国策で、産業が重工業中心に変わり、財閥が生まれる。働く者も44万人に増え、この大資本家と労働者の誕生は、労働争議を多発させることになる。

 自由民権運動はやがて当局から弾圧され、集会の自由を奪われた壮士達は、街頭に出て壮士演歌でそのイデオロギーを訴えた。しかし、むき出しの表現ではなく、アイロニーやユーモアで表現されていた。これは当局の弾圧を避け、あるいは大衆に理解し易いように表現を工夫したものとも考えられる。これはコミックソングらしからぬ笑えぬ事実である。

 当時の日本は、国内では与野党が逆転していて、吏党の民党への熾烈な弾圧と権力闘争が続く。大久保利通暗殺(明治11年)、板垣退助暗殺未遂(明治15年)、大隈重信襲撃事件(明治22年)、星亨暗殺(明治34年)、伊藤博文暗殺(明治42年)、大逆事件(明治43年)、幸徳秋水処刑(明治44年)。国外では日清戦争(明治27〜28年)、義和団の乱(明治33年)、日露戦争(明治37〜38年)、朝鮮併合(明治42年)、と大事件が続いた大変な時代であった。

 明治39年に三光堂は邦人演奏家の録音を試みた。ベカレコード(独)の技師を招き録音し、テスト盤をプレイバックしたところ、演奏者はこの録音が気に入らず、没になったそうだ。少し遅れて、大スターの浪曲師の桃中軒雲右衛門も吹き込む。吹き込んだ原盤をドイツに送り、プレスして日本に逆輸入した。レーベルはライロホンある。その時のギャラは1万5千円。販売価格は1枚3円80銭、後発の国産盤のスタークトンは1円50銭。その後、雲右衛門が他社へ録音したり、海賊盤が出回って、裁判沙汰になったそうである。

 明治41年、国内初のレコード会社が誕生する。米人F・W・ホーンが、明治32年に輸入業者として創業していた三光堂を買収し、日米蓄音機商会(ニッポノホン)を創設する。本社を銀座に、支点を大阪に、工場を川崎に置き、国内で蓄音機とレコードの量産を開始するのである。5月の親睦旅行先「日光明治の館」はホーンの別荘だった所。この立派な建物を見ると、当時どれ程儲かったかが大凡想像できる。

 レコード会社は演歌の人気に目を付けた。しかし演歌師が録音に出向く時にも、スタジオまで官憲が尾行していたそうだ。レコードは勿論ラッパ吹き込みである。添田智道著の「演歌師の生活」によると、吹き込み料は5円との記述がある。当時はレコード1枚が80銭〜3円80銭、明治37年の夏目漱石の大学講師料が月33円、巡査の月給が17円であるから、演歌師のギャラの低さが分かる。当時は印税などは無かったようだ。当時の蓄音機の価格は、30円位から100円位の高級品まで様々である。

 

 

曲目

阿保陀羅経 「出鱈目」:豊年斎梅坊主 (明治43年録音) ニッポノホン2352

 


豊年斎梅坊主

 安永・天明(1772〜1788)大阪で始まったとされる。上方方言の「阿保だら」と仏教の呪文「陀羅尼経」から来ている。願人坊主が盛り場や門付で演じた。内容は社会や風俗を風刺する物が多く、後にこれが浪曲となる。

 明治に入ると、豊年斎梅坊主・本名、松本梅吉(1854〜1927)が舞台芸に発展させ、寄席や遊郭などで演じられた。第6回の例会では、ガイスバーグが快楽亭ブラックの監修により、日本で出張録音盤した有名なG&T盤を聴いたが、今回はニッポノホン盤を聴く。彼は、かっぽれの名人として梅坊主一座の座頭として活躍した。当時の政治家で、リベラリストの西園寺公望が贔屓にして屋敷に呼んで楽しんでいたそうだ。テレビもラジオも無い時代の娯楽の一つであった。

 阿保陀羅経は、小さな木魚を叩きながら早口で演じた言葉遊び。この「出鱈目」はアバンギャルド的なシュールさがある。ラップのようでもあり時代を先取りしている。

 この頃に設立された東京青年倶楽部に不知山人(添田唖蝉坊)も入会することになる。

 ※参考資料を参照のこと。

 

 

まっくろけ節:明治25年(1892年)添田唖蝉坊(1872〜1944)作詞・作曲

  唄:市助、三味線   (大正3年録音)     オリエント A733

 出自は神奈川県大磯の農家、子供の頃はやんちゃであった。悪戯でボヤ騒ぎを起こし、14歳の時、これが原因で東京深川の叔父の家に預けられる。船員であった叔父の影響で船に乗るが挫折、その後転職を重ね、横須賀で青年倶楽部の壮士節に出会う。「私の幼稚な人生観を根底から変えさせおったのもこの壮士節であった。」と述べている。明治25年(1892年)青年倶楽部の壮士演歌師となる。

 
添田唖蝉坊

 

 本名、添田平吉。添田唖蝉坊(1872〜1944)、録音盤は数枚あるそうだが私はお目にかかった事が無い。今回のレコードは、後年他の演者によって録音されたもの。当局は、歌の流行までは抑えられなかったようだ。明治時代は一見盤石な国家にみえるが、その実、裏面史では暗殺や粛清が多く、また、政府の監視も厳しくて壮士演歌は命がけの活動であった。しかし、その歌には戦う者の強さがある。だが諧謔味の裏に、どこか虐げられる者の哀愁も感じられる。それは自由民権運動の困難さからと、底辺で生きる民衆へのシンパシーであったのかも知れない。

 最初の壮士演歌は「ダイナマイトどん」(明治20年)といわれ、その歌詞は「国利民福増進して 民力休養せよ もしもわからなけりゃ ダイナマトどん」と過激だが、これは自由党のマニフェストであった。作者は不詳である。

 壮士とは、権力におもねらず信念を貫く青壮年政治運動家。壮士節は、自由民権派の活動の一つ。明治政府から弾圧を受け、集会を妨害されて、窮余の策として街頭で歌うようになる。これを演説の歌、壮士演歌と云う。当初は啓蒙活動が目的であった。しかし過激な歌を歌うと、直ぐに官憲に拘留された。

 添田唖蝉坊は、このバンカラで演説調の歌には疑問を持っていたようだ。聴衆からも壮士演歌は次第に飽きられてしまい、青年倶楽部のメンバーは離散して消滅してしまう。

 明治34年(1901年)に結婚を機に、不安定な生活を心配した義兄から説得され、演歌師を廃業する。東京本所番町から茅ケ崎に移り住み、義兄の世話でレース加工の工場を経営するが上手く行かず半年で事業に失敗する。その頃に知り合いである演歌師から頼まれ、作曲した「ラッパ節」が大流行し演歌師の世界に舞戻る。

 明治43年(1910年)妻タネは27歳の時に、産後の肥立ちが悪く死去する。だが、失意のうちにあった唖蝉坊を周りは放っておかなかった。離散した演歌師達を統合しようと懇願され、青年親交会」を設立するが、当の唖蝉坊は「私はただ担がれた位のところで、何事にも放心状態であった」と述べている。

 しかし、心ある演歌師達の努力によって演歌は質的に向上し、社会的認知度が上がる。その頃に、風紀の乱れや、受け狙い、金儲けに流れていた演歌界を正したのである。唖蝉坊は息子の知道を大磯から呼び寄せ、同居する為下谷山伏町のいろは長屋に移る。このままではいけないと思案した添田唖蝉坊は「人間の心を歌い、民衆の生活に触れていきたい。」と、これまでの説教調の演歌を止め、親しみ易い旋律と風刺のきいた歌を書くようになる。これがやがて流行り歌として世に受け入れられて行くのである。

 日露戦争時に、幸徳秋水・堺俊彦らと交流を持ち、依頼により「ラッパ節」を「社会党ラッパ節」に改作する。党歌であり、反政府、反戦の歌である。

 明治39年(1906年)、社会党結成と共に評議員になるが、明治44年(1911年)の大逆事件で、幸徳秋水は逮捕後処刑され社会党も解体される。堺利彦は別件逮捕中であった為、事件から免れることが出来た。その後治安維持法が発動され、幾つかの演歌「あきらめ節」「ああ金の世や」「わからない節」「社会党ラッパ節」は発禁処分となる。他に多くの作品があり「むらさき節」「のんき節」「まっくろけ節」「ストライキ節」「増税節」等がある。182曲を残す。

 今回の「まっくろけ節」は後年のもので、このレコードは無難な歌詞が録音されている。この曲は大流行し、替歌も多く作られた。このレコードも半分が他作の戯歌である。最近では、(昭和ではあるが。)三菱ボールペンのTVのCMソングにもなった。今回聴くSP盤は音が悪く不明瞭で聴き取れため、歌詞の不明な部分は伏字にした。オリジナルの歌詞も演者によって一部改作されている。

 唖蝉坊は晩年、西日本を5年間お遍路し東京に戻る。この頃には流石に、もう官憲の尾行は、付いていなかった。6年後、居候していた本所菊川町の屑屋の2階で死去。自伝の「唖蝉坊流生記」はここで書かれた。昭和19年2月8日(1944年)。演歌師一筋に、歌を愛し、正義を貫き、自由を生きた生涯であった。門下生に石田一松がいる。この精神は、長男の添田知道(さつき)が演歌師として継承した。浅草寺に添田唖蝉坊の石碑と添田知道の筆塚がある。彼こそは、流行歌の先駈けである。  ※参考資料を参照の事。

大正

書生節から浅草オペラへ

 第1次世界大戦の特需で工業や商業が活発になり、庶民の就業率も上がり、サラリーンが増え、新たに中産階級が誕生する。治安維持法により労働運動も下火となり、社会が安定し豊かになった。庶民は自由民権運動から継承した、大正デモクラシーを謳歌するのである。大正ロマンの幕開けは、音楽のみならず、演劇、文学、美術、スポーツなどを、質量共に豊かにした。そしてレコードの普及等により、新たな才能を育んでゆく。

 世は中山晋平や野口雨情、竹久夢二等が流行り歌を作って活躍する。大正琴も流行る。だが相変わらず巷では演歌師が民衆を相手に歌を歌っていたのである。浅草オペラは大正時代の象徴であったが、関東大震災で無残にも壊滅してしまう。

 

 

スットントン節:(大正11年録音)   添田知道“さつき”(1902〜1980)作詞作曲

  唄:砂川捨丸 三味線  オリエントレコード 2768−A


添田知道(さつき)

 明治35年(1902年)、添田唖蝉坊の長男として生まれる。大正5年(1916年)堺利彦の主宰する売文社に勤め、父の後を継いで演歌活動に参加。“添田さつき”の芸名で演歌師となり、「ジョージア行進曲」のメロディーに作詞して「パイノパイノパイ」などの流行歌を作る。

 明治後期には、もぐりやヤクザな演歌師が多くなり、演歌はすっかり衰退してしまっていたが、これに危機感を持って、添田唖蝉坊等が立ち上げた演歌師組合「青年親交会」が、質の向上を図って大正期に活動していた。息子の添田智道は、その精神を引き継ぐ。しかし、演歌師の志は高くとも、相変わらず裸一貫の生活であった。

 昭和に入るとレコードやラジオの普及により、大道芸が衰退するのに伴い文筆業に専念するようになる。自身の体験を綴った、小説「教育者」で1942年(昭和17年)新潮社文芸賞を受賞する。戦後は演歌師を描いた著作やレコードの企画を行った。 

 ※参考資料を参照の事。

 

 

書生節「ノンキナトウサン」(上):添田唖蝉坊作曲/石田一松作詞(1902〜1956)

  唄:石田一松(大正13年/1923年録音) ヒコーキ16197


石田一松

 広島の生まれ。母を早くに亡くした不幸な生い立ちを振り払うように上京する。プリズム工場で働くが、工員達は低賃金のへ不満が多く、工員を代表して工場長に訴えたが、即刻解雇されてしまう。その後法政大学予科に入学し、授業料を稼ぐために大正9年(1920年)、添田唖蝉坊に弟子入りし演歌師になる。中学時代に覚えたヴァイオリンを片手に東京中の縁日を回り、書生節を歌いながら流行り歌の歌本を売っては学費を稼ぎ生計を立てた。法学部を含めて大学を卒業するまでの6年間、この危険な商売の他に学業資金を稼ぐ方法が無く、仕事を得るためと、身の安全を守るために、互助会的な「青年倶楽部」に入ったのである。だがそれでもヤクザに殴られたりして生傷が絶えなかった。

 当時当局はヤクザを集めて組織し、政府が手出しすると都合の悪いケースに、この団体を使い野党への妨害活動をした。演歌師もターゲットだったようである。官憲の監視は日常の事であった。

 書生節とは、蓄音機会社が演歌の総称としてつけた名称。書生姿で歌ったことから来ている。書生とは、貧しい地方出身の学生が、高官や富裕層の家に住込み、雑用などをこなしながら学業に励む苦学生のこと。その書生の姿でヴァイオリンを弾きながら、流行の歌本(赤本は海賊版)を売って学費を稼いでいたのである、これを読売という。一冊1銭から2銭であった。知識人である彼らは、政治や社会に対する不条理に風刺を込めて歌った。

 この曲の原曲は添田唖蝉坊の「のんき節」で、これに自作の歌詞を付けた。ノンキナトウサンは、麻生豊の作品で、大正12年(1923年)から報知新聞の日曜漫画として掲載された。これをヒントに曲にした作品である。   

 ※参考資料を参照の事。

 

 

昭和

ジャズから歌謡曲へ

 関東大震災の復興が進み、都市の近代化をもたらした。和洋折衷の昭和モダンの文化が生まれる。アールデコ風のデパートやオフィース等のビルが建ち並び、空にはアドバルンが上がり、交通網が整備され、大劇場が多く建てられる。映画館はトーキーとなりハリウッド映画が見られるようになった。洋楽レコードが輸入されてジャズやタンゴも聴けるようになった。そして、これに影響されたモボやモガが誕生するのである。

 ラジオ放送も既に始まっていて、レコードと蓄音機が家庭に普及が進む。音楽界は作詞と作曲が分業化され、音楽産業は急成長をする。レコード会社が企画や宣伝をして、流行を仕掛ける新たな時代になったのである。しかし、大正ロマンは影響を残していて、北原白秋、西条八十等の作詞、中山晋平等が、名曲を生んで行く。そして、戦後にも影響を与える作曲家が誕生する。服部良一、古賀政男である。

 もう一つ見落とせないのが童謡である。この頃数多くの作品が生まれ、児童文化が花開いてゆく。

 明治時代のイデオロギー的な音楽はすっかり忘れ去られ、小市民的な明るいものに変わった。昭和初期の平和な市民生活を偲ばせる。昭和モダンの到来である。まさに「明治は遠くなりにけり」である。しかし、それは嵐の前の静けさであった。やがて満州事変(昭和6年)、5・15事件(昭和7年)や2・26事件(昭和11年)、日中戦争(昭和12〜20年)が勃発する。そして1930年代後半には軍国主義の足音が聞こえて来るのである。

 昭和15年には国内の総てが大政翼賛会化する。全ての文化活動は圧殺され、レコード会社も国策により大手の数社に整理される。この頃には日本コロンビアが社名をニッチクと改称する。ここに昭和モダンは終焉する。軍歌の時代の到来である。映画「小さな家」や小説「少年H」には、この時代の風景が描かれている。

 

 

お伽歌劇 茶目子の一日(上・下):佐々紅華(1886〜1961)作詞/作曲

 (昭和4年/1929年録音)   ビクター 50681


アニメの画像

 

 茶目子:平井英子(1918〜  )96歳。東京四谷出身。中山晋平の門下生。1928年、ニッポノホンからデビュー。武蔵野音楽学校声楽科を1936年卒業、歌手として再デビュー、「煙草屋の娘」がヒットする。20代中場で結婚し引退した。お母さん:高井ルビー(1895〜1962)浅草オペラの歌姫。夫は佐々紅華。芸名は小道具の指輪をしていて「高いルビー」と言われたことに由来する。先生:二村定一(1900〜1948) 「洒落男」を参照の事。


平井英子


高井ルビー


二村定一

 セリフ入りの童謡をお伽歌劇という。子供向きの作品で浅草オペラで活躍した佐々紅華の作曲である。ニッポノホン入社後、浅草オペラと関わる。その後、ビクターやコロンビアで作曲を行う。「君恋し」「笑い薬」など。

 You Tubeで検索すると、1931年に藤原カムイが製作したアニメを見ることが出来る。SP盤は4種類発売されているそうで、大正9年にニッポノホン(木村時子)で2種類、昭和4年にコロンビア(平井英子)、昭和8年にヴィクター(飯島綾子)がある。私はコロンビア盤しか所有していないので、今回これを紹介する。これは女子小学生の一日を綴っていて、当時の平均的な家庭の生活を偲ばせる。 戦後は、昭和40年に楠トシエ(EPとカセット)、平成8年に高橋クミコ(CD)が録音した。

 

 

酋長の娘:石田一松 作詞・作曲(1902〜1956)      

 唄:富田屋喜久治  外囃子連中(昭和5年/1930年録音)  ポリドール333


石田一松

 昭和に入ると、電気録音が始まる。石田一松は大学を卒業後、昭和5年(1930年)「酋長の娘」を作詞・作曲し、レコード化。当時、設立間も無いポルドールの最初の大ヒットとなる。これにより、ポリドールは会社の基礎を作ったといわれている。

 日本は第1次世界大戦の戦勝国となり、南洋の島々を委任統治領として獲得し、経営に乗り出す。主な産業は鉱業資源と製糖事業である。日本からの移民も多かった。この曲は、そんな時代の音楽だ。

 石田一松は、昭和7年(1932年)に浅草に進出、「インテリ・時事小唄・法学士」の看板を掲げて舞台に上がり人気を博した。師である唖禅坊の「のんき節」に自作の替歌を付け加え、書生節の原点である、世の中や人間の不条理を面白おかしく歌った。しかし、当局からは睨まれて、出演停止を何度も受けてしまう。だが、庶民からは圧倒的な人気を博していた。舞台、ラジオ、映画に出演し大活躍した。

 戦時中は、国策に合わせたノンキ節がレコードに残っているが、この時代は彼の信条を偽らなければ生きて行けない、ノンキとも言っていられない時代であったようだ。

 昭和21年(1946年)戦後初の総選挙で正論党々首として初当選。「地盤と力とパンはありませんけど、看板だけなら日本中、ハハのんきだね」と演説中に歌い人気を集めたタレント議員第1号。議員一人の党であった。その後4回当選したが芸能活動は続けた。

 日本初のタレント本第1号「のんき哲学」を出版、これには彼の新憲法や戦後民主国家への熱い思いと、議員になったのは、広島の実家が原爆で全滅した事がきっかけになったことが書かれている。議員当時も寄席やラジオに出演する人気者で、時代の先端を行っていた。

 だが、日米安保条約に反対し国民民主党を離党、吉田茂の「バカヤロー解散」で落選、その後も選挙にも惨敗。実は長年のヒロポン中毒に悩みな続けていた。胃癌により昭和31年(1956年)逝去、享年53歳。

 なぎら・けんいちは、石田一松の孫弟子にあたるそうで、石田一松や添田亜禅坊の再演なども行っている。演歌師の心は、フォークシンガーに引き継がれた格好だ。

 

 

洒落男“ゲイ・キャバレロ”: 坂井徹 訳詩/クラメット 作曲

 歌:二村定一(1900〜1948) 演奏:アーネスト・カアイ・ジャズバンド(昭和5年/1930年録音)ビクター51013


二村定一

 山口県下関市生まれ。大阪薬学校中退後、洋楽に興味を持っていた二村は、上京して浅草オペラの歌手として研鑽をつみ、やがてニッポノホンやビクターからレコードを出すようになる。当時の大スターである。「アラビアの唄」「青空」「君恋し」等のヒットは昭和モダンの幕開けを告げていた。ラジオからは海外のジャズ(当時は輸入音楽を全てそう呼んだ。)やタンゴが、カフェーではダンス音楽が流れていた。

 この歌を聴いていると、人間って今も昔も少しも変わらないなと思う。この曲は、二村定一がオリジナルである。

 

 

アルコール行進曲(上):正岡 容 作

 歌:バートン・クレーン(1901〜1963) (昭和6年/1931年録音)コロンビアジャズバンド コロンビア26701


バートン・クレーン

 大正15年、米紙新聞記者兼東京特派員として来日。宴会の余興に故国の歌をたどたどしい日本語で歌っていたのを、ニッポノホンを買収し日本コロンビアを創設していたL・A・ホワイト社長がたまたま同席していて、歌手として見いだされる。

 昭和6年「酒が飲みたい」でデビュー、外人タレントのはしりである。六本木に住み、浅草のカフェーで酒を飲み、榎本健一等の芸人たちと交流を持った。30数曲のコミックソングを出すがマンネリ化、昭和11年ホワイトの帰国後、昭和12年に帰国。

 戦時中は戦略局極東班に所属し、中国で諜報の任務に就いた。戦後は特派員として再来日、「日本外国特派員協会」を立ち上げ、初代会長に就任。朝鮮戦争の取材中に負傷、帰国後は大学の教壇に立ち、経済誌のコラムニストとしても活躍した。ムム!この人って何者?…。

 

 

エノケンの月光價千金:波島 貞作詞・長津義司編曲

 歌:榎本健一(1904〜1970) (昭和11年/1936年録音)     ポリドール−2374


榎本健一

 東京青山の生まれ。日本の喜劇王。大正8年に浅草オペラに入り、以後舞台で頭角を現すが、大正12年の関東大震災で壊滅的被害にあった浅草を離れ、京都へ移り喜劇活動写真の端役をしていた。

 昭和4年震災復興とともに浅草に戻り、二村定一と二人座長の「ピエル・ブリヤント」を旗揚げする、後の「エノケン一座」である。その後古川ロッパと共に舞台に映画にと大活躍をする。戦時中は国策に沿った活動をするが、人気は衰退する。

 戦後は笠置シヅ子とのコンビでヒット作を連発する。昭和29年、日本喜劇人協会会長。昭和35年、紫綬褒章を受章。舞台の怪我が原因で右足を失うが義足で舞台やテレビに活躍。映画演劇研究所を作り後進の指導にも当たった。昭和45年肝硬変で死去。

 

 

もしも月給が上がったら 山村三郎 作詞 北村輝 作曲

 歌:林伊佐雄/新橋みどり(昭和12年/1937年録音)   キング10136


林 伊佐雄

林伊佐雄(1912年〜1995年)    

 明治45年下関に生まれる。昭和6年、明治大学在学中にレコード吹き込みのアルバイトがばれて中退。

 昭和9年、歌謡界にデビュウ、日本最初の職業的シンガーソングライター。戦後は作曲家としても活躍する。

 「出征兵士を送る」「男なら」「リンゴ村から」など。

新橋みどり(1917年〜?)

 京都の生まれ。昭和10年デビュー。この曲が大ヒットする。没年は不明。

 当時の平均的な若いサラリーマン家庭の生活を歌っている。歌詞にある“ポータブル”とは蓄音機のことである。お風呂も無かったようだ。

 

 

四人の突撃兵(上)    歌:あきれた・ぼういず

 (昭和13年/1938年)  ビクターJ‐54469


あきれた・ぼういず

 浅草の吉本「花月」で活躍。日劇に出演した時は、観客が劇場を十重二十重に取り巻き、観客動員の記録を作ったと言い伝えられている。後に新興演劇部に移籍し、吉本に残った川田の代役として山茶花究(さざんかきゅう)が加わる。

 レコード会社もビクターからテイチクに移る。ジャズ、浪花節、クラシック、漫画映画を取り入れ、世界中の音楽を様々な楽器を使って演奏した、太平洋戦争直前のこの時代に、アメリカのアニメ、ポパイやミッキーマウス、ドナルドダック等の声音を録音したことは驚きである。

 あきれた・ぼういずは、それ迄に無い新しいセンスを持つ団体であった。しかし活躍した時代が悪かった。1943年解散。坊屋三郎(1910〜2002)の弟、芝利江は昭和20年に中支で戦死している。益田喜頓(1909〜1993)は戦後も役者としても活躍した。

 

—昭和13年(1938年)ビクターレコードの紹介文—

今度「四人の突撃兵」でデビューした、今浅草で売り出し中の人気四人男アキレタボウイズは、先づ芝利江がシュバリエ、益田喜頓がバスター・キートン、坊屋三郎が顔がいともアドケないところから坊屋三郎と、それぞれその依って来る曲拠が解ってゐますが、さてどん尻に控えし川田義雄クンはどういふものだろうと、自称演芸通に訊いて見たら、「あれは君、早熟だった彼が、ニキビ華やかなりし頃かっての映画名女優川田芳子に恋着してゐたところから出てゐるんだよ。彼女がスクリーンから引退した時の彼の嘆きなんてものはハタで見る目も気の毒な位で、すっかり世を儚んでネ、頭を丸めっちまって…」フン、これが本当のあきれた坊主だ。

 

浪曲ダイナ:吉本ショウ

 唄:川田義雄(1907〜1957) (昭和14年/1939年)  ビクター54598


川田義雄

 新興演劇部が吉本からあきれた・ぼういずを引抜くが、川田義雄は吉本に義理があり残る。芸達者である、「地球の上に朝が来る〜ウ」のフレーズが有名。 ダイナは戦前に大ヒットしたジャズソングである。特に日本で流行ったそうである。イントロのジャズ演奏のトランペットはとても上手だが、南里文雄が吹いているらしい。

 この曲は他に、ディック・ミネ、中野忠晴、エノケンのダイナ、移籍後の新あきれたぼういずは「ダイナ競争曲」をテイチクに録音している。当時の大ヒット曲であった。

 川田義雄は、美空ひばりの芸能界の育ての親。ひばりは川田を師と仰ぎ歌唱指導を受ていた。節回しがそっくりである。

 

 

笑うリズム(上)    歌:なんじゃら・ほわーず

メンバー不明 (昭和15年/1940年録音)  タイヘイR1036


なんじゃら・ほわーず

大阪のナンセンスコーラス、女2人男2人の4人組、メンバーや活動の記録が無く、実態が分からない。十数枚のSPレコードを残し消えた謎のグループである。多芸である。軽妙なテンポが素晴らしく、このビート感は今に通じるものがある。戦争によってこの様な高度な芸が消滅したことは悲しい。

今回はA面を取り上げた。曲は、映画説明〜浪曲〜法華経〜山寺の和尚さん〜ダイナ〜見世物口上〜題目〜紺屋高雄〜満州娘、と盛り沢山。

 

 

 

戦後

焼け跡から立ち上がる庶民    

 戦後のコミックソングを語るときに、三木鶏郎は外せない。CMソングでも「ワ・ワ・ワが三つ」「明るいナショナル」「くしゃみ三回ルル三錠」など、当時のメロディーを今でも歌うことが出来る。彼の曲は、戦後の焼け跡から明日を信じて歩み出した日本人への応援歌の様に聞こえる。

 当時の裁判官が、法律を守って闇米を買わず配給だけで生活していたら、栄養失調で亡くなるという時代、生活は困窮を極めていた。それでも軍国主義から解放された庶民は、悩みや苦労を笑いに変えて、新時代に向かって逞しく歩み出して行く。三木の音楽にはそんな強さと明るさがある。  

 

 

僕は特急の機関手で −東海道・九州編− :三木鶏郎(1914〜1994)作詞作曲

歌:轟夕起子/波岡惣一郎/服部富子 (昭和25年/1950年録音) ビクター40595


三木鶏郎

 東京麹町の生まれ。昭和25年、NHKで冗談鉄道唱歌として東京—大阪間を放送すると、評判が良いので全国の駅を網羅して作詞をした。全てを歌うと148番になり、50分以上かかるらしい。当時は国鉄である。混雑のひどさから酷鉄とも言われた。

 敗戦後4年経ち、経済も交通網もいくらか回復しつつあり、庶民は満員の買い出し列車からようやく解放されつつあった。この曲は、明るい将来の向かって走って行くようだ。童謡版の「ボクはお猿の機関手で」が丘灯至夫作詞で、昭和26年に発売された。

 

 

田舎のバスで:三木鶏郎 作詞・作曲

歌:中村メイ子(1934〜現在80歳) (昭和29年/1954年)  ビクターV41347


中村メイ子

 戦後のバスはよく故障した。私も子供の頃、乗っていたバスのタイヤが“バーン”と破裂したりエンストしたりしたのを覚えている。当時の艱難辛苦をユーモアに変えた歌。深刻ぶらず、恰好を付けず、嫌みがない。この明るさが三木鶏郎の身上だ。流石江戸っ子、粋である。

 中村メイ子は当時のアイドルであったが、三木鶏郎に「ビブラートを全部取り地声で歌いなさい。」と指導をされ、メイ子のオリジナルカラーを出そうとしていたそうである。メイ子は三木鶏郎を「都会的でダンディな大人」な人と述べている。それにしてもメイ子の芸達者ぶりは大変なものだ。これは20歳の時の録音である。

 

 

そろばんチャチャチャ:吉川靜夫作詞/大村能章編曲

歌:トニー谷(1917〜1987) (  年録音)  ビクターV41495


トニー谷

 大正6年、東京銀座生まれ。戦時中は中国大陸を転戦、復員後GHQが接収中の宝塚劇場に就職、大道具係から演出助手になり、芸能界の人脈を築いていった。昭和23年、東宝に入社し、日劇ダンスングチームなどの出演者の起用の仕事を行っていた時に、外人出演者が彼の本名の「大谷」を略して呼んでいたことから、芸名を「トニー」とした。

  常識をぶち壊した歴史に残るボードビリアン。そろばん片手にテンポ良く歌う、駄洒落や皮肉を連発して観客を笑わせた。これを見た坊屋三郎は、自分のウォッシュボード芸をパクったと激怒したそうである。好き嫌いの評価は相半ばしていて、少々品は悪くて嫌味ではある。

 赤塚不二夫のマンガに出てくる「イヤミ」はトニー谷がモデルだそうである。キャラクターで売った人。だがやはり、この人は他に類を見ない一代限りのコメディアンである。

 

−完−  

 

 

あとがき

 少しずつ集めていたコミックソングのSP盤がようやく揃い、例会のコンサート・プログラムを組む目途が付いた。

コミックソングについては以前から構想は練っていて、岡田則夫氏から参考資料などの情報を頂いた。ご指導のお陰で、今回のコンサート資料をまとめ上げることが出来た。喜代門守氏には電気再生に取り組んで頂き、今例会での再生装置の提供と、聴き取りが難しい旧吹き込み盤の解析にもご協力を頂いた。

 そして、顧問のマック杉崎氏からは、黎明期の三光堂やニッポノホン、録音事情についてご示唆をいただいた。改めて湘南SPレコード愛好会の層の厚さに感じ入っている。音源には未だに聞き取れない不明な個所があるが、ご指摘ご教授を頂ければ幸いである。

会員の皆様のお力添えに心から深謝申し上げる次第である。

村上信至

平成26年5月30日

 

 

参考文献

岡本則夫 コミックソング大全「傑作レトロソング集」(株)白夜書房 2002年3月15日発行

添田唖蝉坊 「唖蝉坊流生記」  人間の記録 第II期・第1回配本 日本図書センター 1999年12月25日発行

添田知道 「演歌師の生活」 (株)雄山閣出版        1994年1月20日発行

神足祐司 鳩よ No.43、特集「コミックソングのむかしといま」(株)マガジンハウス 昭和63年6月1日発行

中村とうよう/色川武大 レコード・コレクターズ 「あきれたぼういず」(株)ミュージック・マガジン 昭和58年2月20日発行

「歌は時代とともに」 (株)のばら社            2007年8月20日発行

別冊宝島「大東亜共栄圏の真実」(株)宝島社          2014年4月15日発行

石田一松 「のんき哲学」 (株)大元社          昭和21年12月15日発行

徳川無声/渋沢秀雄/サトウ ハチロウ/添田知道 監修  「歌と音でつづる明治」(株)キングレコード1967年作品

山口龜之助 邦楽盤懐古録「珍品レコード」グラモヒル社        昭和47年3月1日発行

馬越ふみあき 「大道芸大全」 (株)同文書院        1998年4月17日発行

添田知道/小沢昭一/島田正吾/榎本健一 他「唖蝉坊は生きている」 (株)キングレコード・キングアーカイブ1973年作品

倉田喜弘 「日本レコード文化史」   東京書籍(株)    昭和54年3月28日発行